関藩主大島光義(大嶋雲八) 93歳の関ヶ原

大雲寺 大嶋雲八 甲冑

美濃国関大島または山県郡出身の戦国武将で江戸時代初期の大名。美濃国関藩主であった大島光義、通称を雲八。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、1604年8月23日に97歳で死去。生涯53度の戦に挑み弓の名手としてその名を知られています。

坂本の戦いで織田信長に白雲をうがつような働きと賞され、命により通称を雲八としています。墓所は関市伊勢町の大雲寺にあり、命日には供養祭が行われています。

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関藩主 大島光義(大嶋雲八)との出会い

大島光義(大嶋雲八)を知ったのは夏休みにこどもと関市が開催していた「謎解き~幻の名刀 雲揚羽の謎~」というイベントです。ここではじめて「大嶋雲八」という人物を知りました。

大嶋雲八 キャラクター画像

その後、新聞で謎解きイベントで行った大雲寺で「大嶋雲八414回忌供養祭」が行われ一般の人も参拝できるのと綿菓子、かき氷がもらえると知り興味本位で家族で行ってきました。

この時に時代小説「九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義」(amazon)が置いてあり、九十三歳の関ヶ原というコピーにひかれて、帰宅後にamazonで検索して購入。時代小説は初めて読みましたが、面白くてすぐに読み切ってしまいました。

大嶋光義(大嶋雲八)の時代小説

小説で大嶋光義は戦で結果をだし、恩賞をもらうよりも弓という己の武器を追求し、稽古を怠らず、弓を極めるために必要だと感じて他の武器である鑓の修行を行いさらに弓の技を極めていきます。

戦国自体には鉄砲が流行りはじめ弓が古い武器に感じ始めるなかで、鉄砲にはめもくれず弓で生涯現役を志し、常に鍛錬を継続しつづける姿。時代遅れと言われることでも自分の信念を持って生き抜く姿に感化されました。

93歳まで現役であの天下分け目の関ヶ原に関わり、鉄砲が主力の武器になっていくなか弓にこだわるところが関の職人文化に似ていると感じそのあたりでも学ぶことの多かった作品です。

有名な刀匠が多く、刃物のまち関というイメージの中で弓を極めた大島光義(大嶋雲八)というすごい人物が関市にいたということに感動し、いつか大河ドラマの主人公として取り上げてくれないかと期待しています。

関連記事:「大雲寺はあの大嶋雲八が祀られている寺

大嶋雲八の読み方

私は最初、「雲八」を「くもはち」と読んでいましたが、小説内では「うんや」と読み仮名がふられていました。しかし、関市のPR動画では「うんぱち」とされています。響き的には「うんぱち」がいい気がしますが、実際はどうなのでしょう。少し調べてみたのですが出ていませんでした。

大島光義(大嶋雲八)が祀られている大雲寺

名称:妙興山 大雲寺
住所:岐阜県関市伊勢町45
TEL:0575-22-3454

大島光義(大嶋雲八)が祀られている大雲寺の地図

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